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zoom RSS 東海道あるき旅を終えて(19) 津波と吉原宿

<<   作成日時 : 2013/06/29 07:46   >>

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旧東海道駿河路は概ね海沿いを通っており、特に沼津宿から原宿、更には元吉原宿があった富士市鈴川本町にかけての街道は、海浜砂丘を防波堤代わりに利用した後背地の海抜2〜3m辺にほぼ直線的に作られている。
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ところが街道は、元吉原を過ぎると山側へ大きく弧を描くように湾曲しながら吉原宿に達し、その先にある間宿・本市場で再び富士川へ向かってほぼ直線路に復する。
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何故街道が大きく湾曲したのか?
初期の東海道を調べてみると、街道は元吉原を過ぎた辺りで吉原湊があった旧富士川河口を迂回したのち、本市場方向へ直線的に道筋がついていたようだ。
にも拘らず、その後いかなる理由で今日残るような海沿いを避ける道筋に変更されたのか。
それは江戸期に起きた2度の津波が原因だと指摘されている。
東海道が整備された初期の吉原宿は、現在の田子の浦港に近い海岸沿いにあった。
今でも地名として元吉原が使われているが、寛永16年(1639年)に津波により壊滅し、和田川を遡った依田原辺りに宿場(中吉原)を移した。
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ところが延宝8年に再び津波に襲われて、この中吉原宿も壊滅した。
このときには「吉原・原宿は水の下」といった壊滅状態が10日ほど続いたそうだ。         
ただ、富士市の広報誌ではこのときは暴風雨、高潮、おまけに津波のトリプルパンチによるものだと解説している。
然るして吉原宿は3度目の移転を余儀なくされて今日の吉原宿通り付近に定着したのである。
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東海道宿村大概帳によると、その規模は本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠  60軒、家数653軒、宿人口2832人であったそうだ。
吉原宿は明治以降は吉原町となり、更には吉原市と行政区域を拡大しながら製紙産業を基盤に発展したが、その後富士市と合併して今日に至っている。

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